アルト的な私的雑感①

最近、ブログ更新をさぼっているアルトのブログ。

というか、最近だけではなく、元々からサボっ…(略)

ブログのネタなんてなんでもいいんですが、いざ書こうとすると億劫になってしまう、というのがブログというものよ、と誰かが言っているのを聞いた気がします。・・・と、言い訳すらしてしまいたくなる始末。。

そこで、今後は、普段の仕事やアルト、世相など、日常から気づいたこと、感じたことをざっくばらんに綴ってみようと思います。

正に私的雑感をダラダラ書いて、ブログの更新にする魂胆です。ww

今回はその記念すべき、第1弾!!(第2弾以降があるかは、モチロン未定。✌)

今回のお題は、『声にならない誉め言葉』、にしましょうか。

(※ここからは長いです。あまり面白くないです。何人が最後まで読むか、疑問です。でも最後はちょっと面白いです。)

 

いきなりですが、皆さんは、パブロ・ピカソをご存知でしょう。そう、あの有名な画家です。私は絵画には造詣が浅く、「有名な画家」という貧相な言葉でしか彼を表す術を持ち合わせていませんが、前衛的な作風で、凡人には理解しづらい奇抜な絵を思い浮かべます。彼の作品が芸術的にいかに素晴らしいかは評論家の方々の議論に委ねることとして、彼にまつわる逸話の中で私の心をざわつかせるものがありました。

それは、あんなヘンテコリン(?)な絵を描くピカソなのに、「デッサンやらせたら誰よりも滅茶苦茶上手い‼」という事実。

実際、彼のデッサン画などはネットで気軽に見られますが、確かに、これがピカソの作品なの?!という驚嘆しかありません。あのヘンテコリンな絵とは別人の作品では?と疑ってしまうような、まさにモノクロ写真のような精巧さとその写実的な表現。凡人を簡単に唸らせるに足る技術を感じさせます。

どうですか?何か感じます?あんな前衛的な絵を描く人間が、デッサンの達人なわけです。あの世界的な評価を受ける作品を多数生み出すその原点は、デッサンという極々初歩的かつ基本的な手技だったのです。基本を大切にし、基本を磨き、努力し、またその奥深さに畏怖を感じつつ、格闘した結果、それを土台として、彼の卓越した技術力、表現力が後世の人々の心に今なお訴えかけ続けています。どうです?軽い感動を覚えませんか?

素晴らしい芸術家にはその力強い表現や主張を大音声で轟かせるための土台がしっかりとあるものではないか、と思うのです。ピカソだけではありません。ドラムでも、アマチュアの叩く8ビートを聞いた後に、プロのおんなじ8ビートを聞くと、感動してドキドキするのです。スネア1発叩くその音だけでも音が違う。理由は説明できないけれど、何かが違って、やっぱり感動するのです。また例えば、高校生のSAXを聞いた後に、プロのSAXを聞くと、違う楽器?と思わせる迫力を感じるものです。みんな、トップリーダーはやっぱり、基本、土台がしっかりしていて、同じ描く、という作業、または、同じ叩く、という作業、はたまた同じ吹く、という作業、いずれにしても、根底からその動作そのものに対する考え方、見え方、接し方、が全く違うのだと思うわけです。深く深く考え、悩み、幾度も幾度も嫌になって、でも、築き上げたい、言いたい、歌いたい、表現したい、という強い情熱に駆られ、日々、高めてゆく。前に進む。その過程で磨かれる表現力で、他者を圧倒し続ける。その無極な高まりに我々は心揺さぶられるわけです。

 

さて、アルトは外科のクリニックです。私は日々、人様の体にメスを入れ、糊口を凌いでいます。

その中で、とても大切にしている処置があります。それは、『血栓性外痔核』の切除術です。同業者には嘲笑の的になってしまうかもしれませんが、ここは敢えて宣言してみました。肛門の外側に血豆ができる急性的な痔の一つです。便秘していきんでしまったり、普段しないような運動を急にしたとか、肛門に負担がかかるようなときにある日突然できるもので、初期は強い痛み、腫れを伴う厄介者です。小さな場合は軟膏で消炎しつつ、自然消退を得られますが、痛みが強いときや、大きなものは、局所麻酔下で切除を行います。これです。5分、10分程度の、この血栓切除の手技こそ、私がとても大切にしている手技です。

血栓性外痔核の切除の手技には、肛門外科、いや、外科医と呼ばれる者が当然に体得しておくべき細かい基本的手技がたくさん詰まっています。手術の規模はとても小さいものです。しかし、これは簡単なようで、とても奥が深い!

急性的な炎症を伴っている組織を手術するときの基本的な考え方、接し方。肛門という狭い範囲での手の動かし方、左手の使い方、術野の確実な確保、(いわゆる、”場”を作る、ということね。)メスの入れる部位、深さ、長さ。メッツェン・バウム(鋏、の事ね。)の刃の向き、切り込む方向、深さ、角度。取るべき血栓(血豆の事)とその周囲の残すべき組織との1㎜以下、薄皮一枚の世界で境界を正確に剥離。血栓が一塊で摘出できたら、腫れが引いた時の創部の状態の想像して、余剰になった皮膚を取りすぎず、取らなさすぎずの絶妙なラインで切除して、究極にきれいな傷跡になるように実施する最終の術創の形成。地味な処置ですが、基本的な手技がたくさん詰まっています。

この小さな部位に注がれる、凝縮された基本的手技。単に鋏で切る、という一動作にもこの上ない意味と気持ちを込めて、”表現する”。患者さんにとって使い心地のいい肛門になるように頭をフルに回転させて。小さい手技だからこそ、患者さんのためにきれいに仕上げたい!自分はこれを、このようにして、こう切りたいんだ!、このようにきれいに仕上げたいんだ!という熱い気持ち。そんな地味ではあるけれども、研ぎ澄まされたキラキラな一動作のたくさんの集まりがもたらす完成の瞬間の納得の創部を見る瞬間は、もう、、、我ながら、、、よだれモノです。

自分にとって、この血栓性外痔核の切除が、ピカソにとってのデッサンではなかろうか、と思うのです。一見、地味で単純なことに思える基本的な手技こそに、この上ない教えがあるのです。逆に言えば、地味で単純な、基本的な手技がまともにできないならば、より大きな事象を正しく判断し、美しく表現できない、ということなんだと思います。血栓性外痔核ですら、きれいに丁寧に完璧に切れない外科医にそれ以上のものは切れない!そう、豪語してもいいと思っています。

手術の前には必ず頭の中でデザインをします。どこをどう切って、どのように仕上げてゆくか。このデザインの段階で手術の半分は決まると思います。ピカソも描くとき、絶対、こんな作業をしていただろう、と思うとワクワクするのです。

そう、手術も表現であると思っています。芸術です。じゃあ、外科医は何を表現しているの?というと、私は、「自然」であると考えています。手術はそもそも人工的なものです。その人工的な術(すべ)を駆使して、より自然に即すように導くため、の芸術です。そもそも、芸術とは、突き詰めたところ、「自然」を人工的手段で表現するものでは?と生意気に考えています。「自然」という、人間には100%まで完全再現しえないその営みを、人間としてできうる形で表現する、というのが芸術なのではないでしょうか。外科医の仕事も基本的には、不自然になっているものを、人工的な手段を以ってして「自然」に限りなく近づける、という、一種の芸術だと思います。しかし、「自然」には触れてはいけない摂理があり、それに抵触するような雑な手術をすると合併症や、何らかの不具合を人工的に生じさせてしまうことになるのだと思います。

それ故、外科医は常に、怖さを感じているべきであると思います。常に自分に対して『?』を投げかける注意深さが必要です。私は自分が小心者でよかったと日々思います。良くも悪くも、ではありますが、外科医向きだなと思います。自分の判断や手技、病巣に対する考えが常に正しいのか?妥当なものなのか?と、日々、懊悩しつつ手術しています。自分の判断に思い込みがないか?手術に自分の我の強さが出ていまいか?、そう、「自然」の摂理に抵触していないか?と。それを忘れてしまって、「俺様手術」になってしまったら、その時は外科医として、終了のお知らせ、を図らずも得てしまうことになるでしょう。

外科医の声なき表現。手術を通してその外科医が美しいと思う世界、景色を作る。しかも、美しいのみならず、器官として実用的でなければいけない。ときに肛門であれば、なおさらです。しかもその評価は過酷かつ明快。術後経過が悪く、患者さんに不具合を感じさせたときは、それは駄作であったと観念せざる得ないわけです。

誰にも公表されない、見られない私の芸術作品。場所柄、秘匿されざるを得ない私の作品たち。私の作品は日々、便にさらされていることでしょう。真っ暗闇に常に閉ざされていることでしょう。しかし、間違いなく、光り輝く作品です。私の自信作が見えない光を放って、多くの患者さんのためになっている喜び。私の肛門の手術を受けた患者さんが、肛門には何も言うことなく、健やかに過ごしてもらえる毎日。外科医としてこれほどうれしいことはない。そう、何も言われない、その声にならない声こそが、外科医への一番の誉め言葉なのです。

 

院長